コリントの信徒への手紙ニ 3:3
あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
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カトリック教会のフランシスコ会訳聖書ではこのような訳になっている。
確かにあなた方は、わたしたちの奉仕を通じて書き上げられた 「キリストという手紙」 であり、墨ではなく……
教派を超えて読まれる新共同訳では「キリスト」が主語となっている。
あくまで私たち人間は用いられる側に置かれる表現となっているが、カトリック教会では人間の側の信仰のわざと神の働きの「協働」によって救いがこの世にもたらされる、という考え方があるから、「私たちの奉仕を通じて……」という訳になっているのだろう。
そのような神学的な主語の違いはあれど、パウロをはじめとするキリスト者たちが、「キリストという手紙」とされている、という表現がとても良い。
それは、私たちが単に聖書に語られている福音の使者とされているということをすごく的確に表しているものだからだ。
ここでパウロの言う手紙とはどのようなものだろうか。
それはまさにパウロが諸教会に送ったものであり、ただひとりに読まれるのではなく、教会全体──教会につらなるすべての人々に向けたメッセージである。受け取られ、読まれるだけでなく、読んだ人を動かしていく力を持っている。なぜならそれはパウロ個人の見解ではなく「キリストという」手紙であるからだ。
キリストなしにキリスト者はありえない。だからパウロはこの手紙の中でこのようにも続けるのだ。
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。(2コリ4:7-12)
キリスト者の人生とは常に神様と共にある。そしてそれは、栄光や地位、あらゆる力や経済的な豊かさの中を歩くものではない。十字架を背負い、痛みを耐え忍び、死に至るほどの苦難をその身に受けられた十字架のイエスと共なる歩みだ。
順風満帆な時、人は誰も救いを求めたりはしない。自分で自分を救えていると思うからだ。
しかしひとたび自分の手元からあらゆるものがこぼれ落ち、奪い去られ、失われた時、そのような人は生きる力さえも手放してしまう。
私たちは忘れているからだ。
私たちのいのちだけは決してこの世のものに左右されはしないということを。なぜなら私たちのいのちはわたしたちが望んで手に入れたものでなく、与えられたものだからだ。
だからこそ聖書における神は、徹底的に「弱い」神として顕れてくださった。
人の悪意と裏切り、罪の中にこそ立ち続け、それをこの世のいのちにおいて受け止め続け、人間が受けうる最も深い悲しみである死さえも甘受された。
それは、私たちを神に依存させるためではない。
私たちがこの世において手にれられるおよそすべてのものを剥ぎ取られ、もはや存在することさえも堪えかねないその場所で、私たちを救うためだ。
私たちのいのちがそれでも価値あるものであり、失われてはならないと私たちに教えるために、神はその痛みと苦しみとこの世の死の果てにまで自ら進まれたのだ。
だから、「キリストの手紙」とされたキリスト者はすべて、「わたしたちは神から与えられなければ何も手にすることは出来ない」ことを知っている。そこにこそ、本当のいのちの本質があることを知っている。その他のことは私たちのいのちをゴテゴテと装飾するだけの無為なものであることを知っている。そしてそれを、その身をもって告げ知らせるための手紙として、キリスト者という存在がそこに立たされている、とパウロは言うのだ。
私たちはいつも、目に見えるものにこだわりたがる。地位や名誉や経済的な安定だけでなく、肩書きや実績を積もうとやっきになる。それは、この世で働き生きていくために必要なものだからだ。
けれども私たちはその生が行き詰まり、息が詰まるものであることも知っている。
私たちの心を蝕み、焦りを生む。もっと手に入れなければという不安に駆られる。手に入れても積み上げても、果てがないものを求めて何になろうか。むしろそれを手に入れようとするのではなく手放していくところに、私たちの平安と本当の意味での成功があるのではなかろうかと思う。
自分の見栄と利益を得ようとして差し出されたものに、人は魅力を感じない。
いつだって「あなたのために」寄り添う心のこもったプレゼントこそ、喜んで受け取られるものだ。
キリスト教はその生を「奉仕」とする。キリスト者の奉仕のわざは神への奉仕であり、神がすべての人を愛されているがゆえに、すべての人への奉仕へと送り出されるものでもある。
その奉仕とは、自己犠牲ではない。相手の心に寄り添い、相手の求めるものを与えるために動くという精神だ。だから、単に自分を無碍にし、犠牲にし、痛めつけることが良い、ということではない。子が自ら傷つきに行くことを望む親はいないように、私たちを愛する神が私たちにそのような犠牲を強いることを望むはずがないからだ。
私たちの働きによって誰かが笑顔になる。それを通して私たちも笑顔にさせられる。
単純なことかもしれない。しかしこの世は基本的に、「私は笑顔でいたい、あなたが悲しんだとしても」という世界だ。それを打ち崩すためのカウンターとしての勧めこそが、「奉仕」であるのだと神は言っているのだ。
「あなたの笑顔のためにわたしは働く」ことで、ちょうどバランスが取れるくらい罪深い世の中なのだから。