コロサイの信徒への手紙 2:16-17

だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

+++

この世のあらゆる祭りや儀式は「影」にすぎない、とパウロはいう。
それはこの世の教会が行っている儀式が意味をなさないまがいものである、ということではない。
むしろその不完全なこの世の儀式を通して、完全で真の天の国を垣間見るということを言いたいのだ。

聖餐は天の国における神と人とが共に座る愛餐の時を垣間見ることができ、また私たちがイエスの教えられたとおりに「互いに愛し合う」こと──たとえ敵であっても愛をもって関わろうとすることを通して、イエスが私たちに見せようとした天の国の一端を垣間見ることになろう。

そのような意味での「影」であり、影があるということは実体が確かにあるということの証左でもあるのだとパウロは言うのである。
そしてその実体こそ、神ご自身が肉をまといこの世に来られたイエス・キリストという実体に帰していくことになる。
神が人間イエスとしてこの世に来られたことによって、むしろ人の力では決して垣間見ることのできない、到達することのできない領域を、むしろ神の側から招き、垣間見せてくださったということが、福音書において語られたことであったのだ。
そしてパウロがこの言葉を書いたとき、その福音書の記述は生々しく息づいていた「ついこの前に実際に起きた出来事」であったに違いない。

神が確かに働いておられる、と感じる瞬間に私たちが出会うとき、私たちはそこに何か特別な意味を見出そうとするかもしれない。
しかしそこに人知を超えた出来事が起こっているように思う、ということ自体がメッセージであるのかもしれない。
「わたしはあなたの近くにいる、そして生きて働いているのだよ」と私たちが心に刻まれるような体験をすること。それだけでよいと、それこそが、唯一、神が私たちに何よりも知ってほしいことであるのだから。